貞観の平和の時代のその後は……?

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今月末にWebでの勉強会をやる、ということで、
今、資料を作成しています。

しばらくセミナー等をやっていなかった数年です。
こういう仕事は久々のこと。新鮮ですよね。

やり始めるとたいてい、のめり込んでしまう。
大学のころから、こういうレジュメづくり、
やっているしなぁ。

画像は「貞観政要」の時代背景についてまとめたもの。
すると気づいたことが1つあります。

中国史で最も安定した平和が訪れたとされる、
唐の皇帝・太宗の時代。
その即位するまでの、
闘争の歴史はよく語られます。

ただ、平和だった「貞観の治」の
そのあとについては、あまり言われません。
これには理由があるんですね。

じつは太宗の死後、すぐに唐の王朝は
混乱期を迎えてしまいます。
その理由は彼の唯一の失敗、優れた後継者の育成が
うまくいかなかったことにありました。

結局、後継者たちの抗争が行なわれ、
最終的には9男であった高宗が即位しますが、
その治世は民衆のためというよりも
内乱の種を防ぐための粛清に
専念したものになります。

皇帝の権力を削ぎ、
自分が内政を掌握することで、
そんな恐怖の時代を終わらせたのが
実は中国史では「悪女」の1人に数えられる人物、
高宗の妻だった
「則天武后(武則天)」だったんですね。

一時的に国名を「周」に変え、
一族を優遇させたり、敵を惨殺したりと、
何かと評判の悪い武則天ですが、
じつは混乱の渦中にあった唐の問題を解決し、
国家を再編成させた人物。

優れた指導者を育成するための「貞観政要」も、
実は彼女の時代に編纂されているんですね。
日本史ではなんとなく、北条政子を彷彿させます。

彼女が防いだ災厄の1つが
日本も関与した「白村江の戦い」です。
朝鮮半島にあった「百済」を救う目的で、
日本は大陸に兵を進めるのですが、
結局は当時の唐と新羅の連合軍に大敗します。

外敵を退けたことで唐の王朝は権威を取り戻り、
これが次の時代の平和へとつながったんですね。

そこまで勉強会で話すかわからないのですが、
実は彼女こそ、太宗の思想の
一番の後継者だったのかもしれない。

「Web賢者の会」は、
10月28日(金)19時〜20時。
下記のteamアドレスから参加できるので、
気軽に当日はアクセスください。
https://teams.microsoft.com/l/meetup-join/19%3ameeting_NTdhY2VkOWUtMmRhNy00Y2YyLTkyNjAtYTY0Y2ZjMGM0MmJl%40thread.v2/0?context=%7b%22Tid%22%3a%226786d483-f51b-44bd-b40a-6fe409a5265e%22%2c%22Oid%22%3a%22802b037e-7a1c-49b3-b0bf-de45f00912d2%22%7d

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