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上杉謙信の戦い方
- 2023/1/12
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1月11日は「塩の日」だったそうです。
なんで塩かといえば、
あの上杉謙信と武田信玄のエピソード。
争っていた今川氏と北条氏に塩の輸出を止められ、
甲斐・信濃・上野という武田領は、困窮に陥ります。
そんな窮状を見た上杉謙信が、
それでは民衆が困るだろうと、
敵であるにも関わらず
越後から塩を送り届けたとされます。
それが1569年の1月11日だったとのこと。
しかし、事実は少し違っています。
この塩のエピソード自体を疑う声もあるのですが、
記録として後日の資料に残されているのは。
今川氏と北条氏が「塩止め」を行なった際、
越後も参加するように要請されたときの
上杉謙信の判断です。
「私は弓矢で戦うことこそ本分だと思うので、
塩止めには参加しない」
そう決定して、越後の商人には、
塩を高値にしないよう申し付けたそうです。
「だから越後からいくらでも輸入するといい」と、
武田信玄にも文書で伝えたとか。
それで信玄は謙信を「流石だ」と
褒め称えたというエピソードですね。
つまり、「送った」というのは言い過ぎ、
「取引を禁じなかった」というのが正しいようです。
ならばどうして1月11日が
「塩の日」になったのだろう?
おそらくはこの年、上杉謙信と武田信玄は、
休戦協定を結んでいます。
ときはすでに信長が今川義元を破り、
西の脅威になってきたころ。
そんななかで甲斐、武蔵、越後が
争っている場合ではないと察していたのでしょう。
ただ、そうでなくても、
敵国の民衆に対しては気を遣ったのが、
上杉謙信さん。
それには戦略的な意味があります。
というのも、もし塩を止めて
民衆の恨みを買ってしまったら、
いつかこの地を自分の領土にしたときに
統治が難しくなるわけです。
「あのときの恨み!」とばかりに、
反乱が起こるかもしれない。
逆に「上杉の殿様は優しいな」という
印象を与えておけば、
武田家が悪政を行なった場合には
民衆の寝返りだって期待できます。
敵国の民からの印象をよくするのは、
謙信にとっての作戦の1つでもあったんですね。
その逆に徹底的にウクライナのインフラを破壊して、
民衆からの怒りを買っているのが
プーチン大統領ですが、
これではウクライナを統治する未来なんて
考えられませんよね。
クラウゼヴィッツの『戦争論』に従うなら、
まず戦争は「目的が何なのか?」を
よく理解する必要があるわけです。