世阿弥の教え……「咲いては散り続ける花」となる

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こちら私が現代語訳した
風姿花伝』(致知出版社)ですが、
8月8日(新暦では9月)は世阿弥の命日だったそうです。

1960年のこと、彼の菩提寺だった
奈良県の補巌寺で、
命日を8月8日と記した納帳が発見されたとのこと。
年号の記述はありません。

以前にも書きましたが、晩年、政争に巻き込まれ、
佐渡島に流刑になっていた世阿弥。
その納帳が奈良で見つかったとなると、
あるいは都に戻れたのか?

彼を島流しにしたのは、
恐怖政治で知られる室町幕府の6代将軍、
足利義教でした。

その義教は1441年に暗殺されていますから、
世阿弥がそのとき生きていたのであれば、
恩赦になった可能性も高い。
でも、確かなことはわかりませんね。

そもそも世阿弥が流刑になった背景には、
甥であり、世阿弥の後継者としてのしあがってきた
能役者・音阿弥との確執がありました。

音阿弥は、将軍・義教の庇護を受けることで
絶大な権力を得ることになります。

ライバルをことごとく
排除していったことでも知られる義教は、
能の世界でも音阿弥を第一人者にするため、
先代カリスマの存在をゆるさなかったわけです。

それを世阿弥さんは、どう受け止めたのか?

もともと自分自身が12歳のとき、
ときの大将軍・義満のもとへ
献上品のように差し出された美少年役者が世阿弥でした。

父親だった観阿弥の策略ですが、
身分も低く、人権すらなかった当時の芸人たちです。
しかし世阿弥は大将軍の寵愛を受け、
結果的には絶大な権力を手にします。

その権力によって
彼は「能」を公的な文化資産にまで仕上げていったのですが、
同じようなことを自分よりずっと若い甥が
将軍に取り入って始めたわけです。
それも時代の変化と、
感じてはいたのではないでしょうか。

ただ、若さや勢いだけが、
芸の魅力でないことを彼は確信していた。

「たとえば幼いときに自分が演じた芸、
初心者だった頃の演技、
油がのった三十代前後の頃の振る舞い、
歳をとったあとの演目……など、
年代ごとに自分に備わってきた芸風を、
すべて「現在の芸」として一度に持つ。

そうやって何歳になっても成長を目指していくことこそ、
芸人の本質であり、
だから役者の仕事は楽しいのだと……。

そんな考えがあったからこそ、
島流しになった佐渡でも、彼は能を放棄しませんでした。

現地の貧しい人々に能を教え、
いつか誰かが読んでくれればいいな……と、
自分の仕事論を綴り続けたわけです。

だから死んだ場所が都だろうが孤島だろうが、
この人には関係なかったのだと思います。
最後まで「自分にできる仕事」を追い続け、
人生を楽しんできた。

そんな生き方を私たちも目指したいですね。

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