江戸のビジネス仕掛け人・平賀源内の仕事術

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「考えていては何もでき申さず候、
われらはしくじるを先につかまつり候」

こちらは本日、X(twiter)の
トレンドワードにもなっていました
平賀源内さんの言葉ですね。

トレンドになったのは、大河ドラマに出ていたから。
大河といえば、今の主役は、
江戸時代に出版社(版元)を作って成功した
蔦屋重三郎ですが、
その発端は、当時、著名人だった平賀源内に、
『吉原細見』という「吉原のガイドブック」の
序文を書いてもらったことに始まるのだとか。

実は源内といえば、その当時にあって
よく知られていた男色家。
今でいうBL小説なども書いていたそうですが、
そんな源内が遊女の町、吉原の文化を絶賛した
……ということが評判になったわけです。

にしても、私たちの歴史常識では、この人、
「江戸の発明家」ですよね。
エレキテルを作ったことで知られます。

ドラマでも極めて「変な人」として描かれますが、
風流にわかる文化人であった。
当時のこの肖像が象徴していますが、
一般の感覚としては「えっ?」と思ってしまう。
一体、平賀源内とは、何者だったのでしょう?

彼の正体は、今風に言うなら、
「コンサルタント」というのが
一番正解なのだろうと思います。

エレキテルを発明した……というのは間違いで、
オランダの商人が持ってきた機械を
源内は6年かけて修理したらしい。

この電気を発生する装置を使って、
やっていたのは「アトラクション」でした。

つまり、ビリッと見物人を痺れさせたりして
「西洋にはこんなすごい技術があり、
私はそれについて熟知している。
それを持って、私が皆さんのいかなる要望にも
応えようじゃないか」と宣伝する。

それで地方の藩に雇われて、
鉱山の開発を指導したり。
大きな商店に雇われて、売上拡大の方策を練ったりと、
いろんな依頼を引き受けていたようです。

後者に関して、
「土用の丑のウナギ」は伝説のようですが、
江戸で大ヒットした石鹸の
キャッチコピーを考えたりもしていました。
ドラマではこのコピーが、
序文を思いついた動機になっていましたね。

その傍ら、作家として本を書いたり、
歌人であり、浄瑠璃作家でありと、
いろんなことを自由にやっていました。
いいですよね。そんな生き方。

ただ、元々が武士だったゆえか、
建設の仕事に携わった際に大工と揉めて、
彼を殺傷してしまいます。

泥酔していた際、設計図を盗まれたと
誤解しての失態……だったようですが、
源内はそれで捕まり、牢獄で破傷風にかかり
52歳で亡くなったそうです。

破天荒な人物らしいといえば、その通りですが、
天才的な人物としては、寂しい最期でした。

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