蔑ろにしてはいけない日本の「裏玄関」

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能登半島で起こった地震、
津波注意報は解除されたようですが、
まだ断続的な地震が続いています。

東日本大震災のときも、そうでした。
当時、揺れるたびに
憂鬱な気持ちになったのを覚えています。
当時、小さかった甥は、
その度に泣いていたのではなかったか……。

震災のひと月後くらいか。
ボランティアに参加し、
災害時の仙台で寝泊まりしたこともありましたが、
そのときは揺れるたびに、
緊張が走っていた思い出があります。

ですから現在、能登にいらっしゃる方は、
被災した状況の中、
とても大変な思いで過ごしていることと思います。
どうか堪えて、厳しい冬の困難を
乗り越えてほしい気持ちでいっぱいです。

何年か前、私も能登へ
行かせていただいたことがありました。
画像は七尾市のホームページからですが、
「七尾城」から見た街の風景。
どうしても行きたくて、私が訪れた山城でした。

能登といえば、
なかなか行くのも困難な場所。
本州にあって、
日本の辺境のようなイメージがあります。

ところが、この城の発端を気づいた
室町時代の畠山氏は、
能登を支配することで出世し、
大阪や紀伊を抑えることで、
細川氏や斯波氏と並んで
足利幕府を動かす存在にまでなっていきます。

のちに信長の命でこの地に城を築いた前田利家も、
当初は加賀の柴田勝家に従属しながら
動向を監視する立場だったのが、
やがて加賀百万石を築く大大名になっていくわけです。

一体、この辺境に何があるのか?

実は長く「日本の裏玄関」として、
交易の中心になっていた場所が能登なんですね。

古代の頃は、渤海という、
満州あたりにある国の窓口なっていたし、
江戸時代までは日本海を回る「北前船」の
中継地にもなっていました。

日本海側でボコッと突き出た半島は
ちょうど寄りやすい場所ですし、
港として繁栄したのが現在の輪島でした。

だから幕府は、ここに直轄領も置いていたんですね。
あまり機能はしていないようでしたが……。

そんなふうに、実は日本経済を支えてきたのが、
この辺境の土地。
決して日本が蔑ろにしてはいけない場所です。

被災者のケアとよもに、
いち早くの復興を期待したいですね。
また回復したら行きたいな、と思います。

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